「お先に失礼します」が言えなかった私——アメリカの職場が教えてくれた、定時退社という自由
時計が午後5時を回った。
デスクのまわりでは、同僚たちがノートPCをパタンと閉じ、「See you tomorrow!」と軽やかに声をかけながら席を立っていく。でも東京の大手商社から転職してきた田中さん(仮名・35歳)は、まだ椅子から動けなかった。
「仕事は全部終わってる。でも、なんか……帰っていいのかなって」
その感覚、わかる人にはわかるはずだ。
「残業=やる気」という方程式
日本の職場では長らく、遅くまで残ることが「真剣に働いている証拠」として機能してきた。上司より先に帰ることは失礼で、定時ぴったりに帰ることは「やる気がない」と受け取られかねない。タスクが終わっていても、なんとなく「いる」ことに意味があった。
田中さんがアメリカの会社に転職したのは3年前。シアトルを拠点とするIT企業で、チームの半数以上はアメリカ人だ。入社初日から、そのカルチャーショックは始まった。
「マネージャーが5時15分に『Good job today, see you!』って帰っていったんですよ。え、置いてかれた?って思って(笑)。でも誰も気にしてなくて、みんな普通に帰ってく」
罪悪感の正体
問題は、「帰っていい」とわかっていても、体が動かないことだった。
シカゴで働く元メーカー勤務の山口さん(仮名・41歳)は、転職後しばらく「意味のない残業」を自分に課していたという。
「タスクは終わってる。でも帰ったら、なんか手を抜いたみたいで。誰も見てないのに、自分の中で怒られてる感じがするんです」
その「自分の中の声」の出所は、長年の刷り込みだ。新卒で入った会社では、終電まで残ることが普通で、「早く帰る人は仕事ができない人」という空気があった。それが10年以上続けば、定時退社に罪悪感を覚えるのは、ある意味で自然な反応かもしれない。
でも、アメリカ人の同僚たちにそれを話すと、みんな一様に首をかしげた。
「『なんで?仕事終わったんでしょ?』って言われて。そりゃそうなんだけど、って」
「帰る」が信頼を壊さなかった
多くの日本人が最初に恐れるのは、「早く帰ることで評価が下がるんじゃないか」という不安だ。でも実際はどうだったか。
田中さんの場合、転職後3ヶ月ほどで、意を決して定時に帰り始めた。翌日、マネージャーに呼ばれた。「怒られる」と覚悟して向かったら、言われたのはこんな一言だった。
「『昨日のレポート、わかりやすかったよ』。残業のことなんて一切触れなかった(笑)」
アメリカの職場では、評価の基準が「時間」ではなく「成果」に置かれていることが多い。何時まで座っていたかより、何を達成したかが問われる。それは頭でわかっていても、身体感覚として腑に落ちるまでには時間がかかる。
山口さんも、少しずつ変化を実感していった。
「定時に帰るようになっても、仕事の評価は変わらなかった。むしろ、次の日に余裕を持って出社できるから、集中力が上がった気がして」
アメリカ人が当たり前にしていること
ニューヨークで働くデザイナーの佐々木さん(仮名・29歳)は、アメリカ人の同僚の「帰り方」に衝撃を受けた。
「5時になったら、会話の途中でも『あ、今日はここまで。続きは明日ね』って言って帰るんですよ。謝りもしないし、申し訳なさそうでもない。それが当然、みたいな顔で」
その「当然」という感覚こそが、日本人には最もハードルが高い部分かもしれない。謝らずに帰る。後ろめたさなく席を立つ。それは「図太い」のではなく、「仕事と生活の境界線を自分で引いている」ということだ。
アメリカでは「ワークライフバランス」という言葉が、建前ではなく実際の行動規範として機能しているケースが多い。有給を使いきることを当然とし、家族との時間を堂々と優先する。それを「不真面目」と見なす文化的な圧力が、日本よりはるかに低い。
解放感の先にあるもの
定時退社が「当たり前」になった今、田中さんは言う。
「最初は怖かったけど、今は帰れることが普通になった。夜に本を読んだり、料理したり、友達と飯食ったり。なんか、人生取り戻した感じがする」
山口さんも同じだ。
「残業してた頃って、仕事が終わった後の時間を考える余裕がなかった。今は、5時になったら何しようって考えながら仕事してる。それがモチベーションになってる」
もちろん、すべてがバラ色というわけではない。繁忙期や締め切り前には残業もある。重要な案件では夜遅くなることもある。でもそれは「例外」であって、「ルール」ではない。その違いが、精神的な重さをまるで変える。
「帰ります」と言える日まで
日本からアメリカへ。働き方の価値観を塗り替えるのは、一朝一夕にはいかない。何年もかけて刷り込まれた「残業美徳」の感覚は、簡単には消えない。
でも、少しずつ変わっていける。
「仕事が終わったから帰ります」と、謝らずに言える日が来る。
それは怠慢ではなく、自分の時間を自分で守るということだ。アメリカの職場が、そのシンプルな事実を教えてくれた——と、シアトルの夕暮れを眺めながら田中さんは笑った。