「また会おうね」は約束じゃない——アメリカの友情が「使い捨て」に見えてしまう理由
Photo: diverse friends laughing outdoors American park casual, via news.cgtn.com
ニューヨークに赴任して3年目、田中さん(38歳・仮名)はふとしたことに気づいた。職場の同僚と毎週ランチをともにし、週末にはバーベキューに呼ばれ、「Best friendだよ」とまで言われていたのに——その同僚がシアトルに転勤した途端、連絡がぱったり途絶えたのだ。
「裏切られたわけじゃないのはわかってる。でも、なんかすごく虚しかった」と田中さんは振り返る。
「フレンド」の定義が、そもそも違う
日本語の「友だち」と英語の「friend」は、見た目は似ているようで、中身がかなり違う。日本では、友だちというのは長い時間をかけて積み上げた関係であり、物理的に離れても続くものだという前提がある。小学校の同級生と30年後も年賀状をやり取りする文化は、その象徴だろう。
ところがアメリカでは、「friend」はもっとカジュアルで、文脈依存的な言葉だ。同じ職場にいるあいだ仲がいい人も「friend」、毎週ジムで顔を合わせる人も「friend」、子どもの同級生の親も「friend」。関係の深さよりも、「今この場を共有している」という感覚が優先される。
社会学的には、これを「situational friendship(状況的友情)」と呼ぶ研究者もいる。ライフステージや居住地が変わると、その「状況」が消えるため、関係も自然と薄れていく。これはドライなのではなく、アメリカ社会の流動性——平均的なアメリカ人は生涯で11〜12回引っ越しをするというデータもある——を反映した、ある種の合理的な適応なのかもしれない。
「深い話をしたのに」という誤解
LAに住む佐々木さん(32歳・仮名)は、渡米直後に「すごく仲良くなれた」と思っていたアメリカ人の友人に戸惑った経験がある。
「初対面なのに家族の話や元カレの話まで打ち明けてくれて、私のことも根掘り葉掘り聞いてきて。日本だったら、そこまで話せる人って本当に親友だけじゃないですか。だから、この人とは特別な関係になれると思ったんです」
でも数ヶ月後、その友人は別のコミュニティに移っていき、佐々木さんとの交流はほぼなくなった。「私が何かしたのかな、と何度も考えた」と彼女は言う。
これはよくある誤解だ。アメリカでは「自己開示(self-disclosure)」が早く、浅くはじまる。プライベートな話題をオープンにすることは、「あなたを特別扱いしている」というサインではなく、単なるコミュニケーションスタイルであることが多い。深さと速さは、必ずしも比例しない。
「薄い」のか、「広い」のか
とはいえ、アメリカの友情観を一方的に批判するのも公平ではない。
シカゴに10年以上住む中村さん(45歳・仮名)はこう言う。「最初は確かに孤独だった。でも今は、人生のステージごとに違う友人がいて、それぞれの時期に深く関わってくれた人たちがいる、ということの豊かさがわかってきた」
日本式の「一生もの」の友情は確かに美しい。でもそれは、同じ地域に長く留まり、同じコミュニティの中で生きていくことを前提としている部分もある。転勤族が多く、国をまたいで生きる現代においては、「今ここにいる人と全力でつながる」というアメリカ的なアプローチも、一つの生き方として機能する。
心の距離を測り直す
アメリカで友人関係に悩む日本人に共通しているのは、「相手が冷たくなった」のではなく、「自分の期待値の基準が違った」というケースが多いことだ。
アメリカの友情は、コンスタントな連絡や物理的な距離に依存しない代わりに、再会したときにゼロから温め直せる柔軟性がある。5年ぶりに会っても「久しぶり!元気?」と普通に続けられる関係——それを「薄い」と見るか「自由」と見るかは、価値観次第だ。
田中さんも今では、シアトルに転勤した元同僚とたまにSNSでやり取りするようになったという。「向こうが悪いわけじゃなかった。ただ、私が思ってたより、あの人にとっての友だちって、もっとゆるいものだったんだよね。それに慣れたら、逆に楽になった」
友情の形は、文化によってこんなにも違う。それを「どちらが正しい」と決めるよりも、まず「違う」と知ることが、アメリカでの人間関係を生き抜く最初の一歩かもしれない。